アウグスティヌスは、その著書である「三位一体論」で「父と子と聖霊が、三つなる神ではなく一つなる神であると聞けば、諸君はこのことに困惑するだろう」と、三位一体説の理論構築に人為的な操作が必要であることを認めています
宗教や哲学は、基本的に人間の脳内の産物で、「真実の説明」なのですから、真実そのものは一つしかないということを前提にすれば、「説明の改善」によって、一見全く違う立場にあるような主義主張も、近似するものに変わってくると、まあ、考えられるわけです
果分不可説(かぶんふかせつ) これ、仏教語です
説明をはしょりますが「空(くう)」を、つまり「果分」といいます
この「空」を、言葉によって説明しようとすると、説明する人の使う言語とか、知識量とか語彙の制約を受けます
つまり、言葉による説明は脳内に生成される「色(しき)」です
言葉によらない「写真」「絵」「音」「動画」は、やや「空」に迫るかもしれませんが、やはり脳内に生成されるので同じことです
「色」は「空」をどんなに上手に説明しても、「空」そのものには絶対になりません
それを果分不可説といいます
目の前に「PC画面」がありますが、これを「モニターです」と説明したとしても、液晶の種類、大きさ、解像度など千差万別で一言で言い切れるものではありません
言葉は便利ですが、実際は、真実の一部分を描写するだけです
いや、こういった話は退屈かもしれませんが、仏教ではもう2500年間、このような議論を継続しているのです
現在の仏教学会では、漢訳、サンスクリット語、パーリ語、チベット語、の諸経典を比較校定した研究が主流です
これこそ、退屈なんですが、学問の手順としては避けられません
ところがですね
この、厳密にテキストクリティークされた経典の語句は、果分不可説で、どのみち真実の説明の断片でしかないということが、最初から了解されているのです
(ちなみに、世界の仏教史でただ一人、弘法大師は、果分不可説ではなく果分可説を説いています。天才といえばそうだし、主流でないといえばそのとおりです)
とまあ、ここまでが前振りです
僕の「色即是空」を図示した上のイラストなど、実は、仏教学の精緻な議論からすれば、かなり大雑把なものです
しかしながら、そもそも、仏教の説明は、真実の断片の集積でしかないのです
それで、僕の場合、これらのイラストを「仏教の目的」を達成するための道具と割り切って、実用上まにあうだろう精度で作っています
「仏教の目的」とは、「成仏、仏となる」ことですけど
さて、こういった話を、長年の僕の読者(1996年からやってますから)は、また同じようなことを書いてる、と思ってらっしゃるかもしれませんが、実は、それが狙いでして、絶え間なく反復することで、理解が身についてしまうものなのです
「同じような」と思った瞬間、すでに記憶の片隅に仕舞われていることに気づいたわけですよ
このBlogにあるのは、大雑把なイラストや議論なのですが、そもそも説明というものは脳内生成物で「色」だから、さほど信用していない、という立場ですから、これ以上精度を上げた議論に踏み込むことは、意図的にあまりしないつもりです
それで、前回からの続きのプラトンですけれど
プラトンに限らず、哲学は、言葉でします
ここに、瞑想や祈りを持ち込んだら、少なくとも西洋哲学ではなくなってしまいますが、仏教哲学やスコラ哲学は平気でそれをしているのです
それを敷衍して、科学もですね、実験と観察に基づくのを拡大して、ここに念とか意志とかを加味すると、これは、一気にオカルトになりますね
しかし、そういう分野も実際あるわけで
「ありがとう」と書いた容器に入れたら腐るのが遅くなったとか
果分不可説ということを踏まえれば、「言葉による哲学」や「実験観察による科学」と、「瞑想する哲学」「念じる科学」は、共存できると考えるべきではなかろうか、ということになりませんか
仏教の瞑想
仏滅後100年頃バイシャーリで行われた第二結集で、仏弟子は上座部と大衆部に分裂します
伝統を墨守するのが上座部、臨機応変に本質を求めるのが大衆部です
上座部はほぼ原型のまま、南伝してタイやミャンマー、スリランカなどに伝わり
大衆部はインドで密教化しつつ、大乗仏教として中国やチベットに伝わり、日本はこの流れに属します
上座仏教の修行の実践方法は「清浄道論」に、まとめられています
実に克明に解説が書かれています
瞑想方法も各種解説されていますが、主要な方法は、シャマタ(止)ビバシャナ(観)と言い、つまり、止観です
パーリ語から口語訳された500ページくらいの本が三冊です
上座仏教の修行法が説きつくされた、と言っていいでしょうね
一方の大乗仏教では、膨大なものがありそうですが、修行について体系形的にまとめられた本は天台大師が書いた「摩訶止観」とその要点をまとめた「天台小止観」しかありません
あとは、その2冊の止観の解説書があるだけです
仏教の修行を止観という概念で統合しています
「摩訶止観」は文庫本にもなっていて、400ページくらいのが2冊です
今、この本は絶版してしまっているようです
漢文の書き下しですが、細かい字で、けっこう大部です
「摩訶止観」以上の止観の体系的解説書は、結局現れませんでした
「清浄道論」と「摩訶止観」が、仏教の修行法の解説本の双璧です
止観が、上座部・大衆部の修行法の共通概念であることがわかります
これを、きちんと理解しなければ仏教の修行ができないということだと、坊さんは皆、大学院で仏教学を専攻しなければならなくなりますね(^^;;
で、実際は
僕は高野山で僧侶専門の修行道場の監督を1年やりましたし、比叡山で一から修行しなおしましたけれど、部分的な引用などはあったかもしれませんが、通して読んだりはしません
現在は、こういう古典的論書を踏まえた、もっと洗練された方法が、各宗派で研究され実施されています
主要な修行法は
天台系 経典読誦と密教
真言系 密教
浄土系 念仏
禅宗系 坐禅
法華系 題目と経典読誦
まちまちで統一感がありませんが
密教を印 と真言と観念に分解すると
身 印
口 真言 経典読誦 念仏 題目
意 観念 坐禅
と、おおまかに、身口意の三つに分類できます
身口意の全ての要素を含んでいるのが密教です
密教は、日本では平安時代からある古い宗派になりますが、仏教史の流れからすればインドで仏滅1000年後位に成立した、もっとも新しい宗派です
ですから、修行法は、古くからある方法を統合した、洗練された方法に進化しているとも言えます
また、逆に、各宗派は、一つだけを深く追求しているとも言えます
密教では止観を踏まえて、加持という概念が成立しました
いろいろ書きましたが
つまり仏教では、自分が脳内に作り出す、生きているという素朴な感覚ではなく、その感覚を感じる前の世界を求めている、ということなのです
なぜなら、自分という存在が、執着、妄想、間違い、思い込み、など様々な歪みを作り出しているからです
これを学習と経験から学ぶ、というのが世間一般の常識なのですが、その学習すべき対象も、果分不可説で、あまり当てにはならないのです
でまあ、学習ももちろん大事ですが、瞑想は必要だということになるのです
精霊と仏性
Noli Me Tangere(我に触れるな) Tiziano Vecellio 1511-12
イエスは磔で死んでから、精霊として復活されます
この復活を事実として受け入れられたなら、キリスト教徒です
イエス亡き後、精霊が存在しなければ、キリスト教は単に過去の偉人の事跡で終わってしまいます
迷える子羊を誰が救うのか、ということになりますから、イエス亡き後のキリスト教には、復活が絶対に必要です
クシナガラ 荼毘塚 2010/02/15
お釈迦様は、クシナガラの最後の説法(涅槃経)で、「一切衆生悉有仏性」を説いてから、涅槃に入り、荼毘に付されます
仏性が、すべての生き物にあるから・・・・・止観をすれば仏性にたどり着けます
仏性がなければ、止観をしても、ただの居眠りで終わってしまいます
お釈迦様亡き後の仏教には、仏性が絶対に必要なのですが・・・・
「仏性の無い人間がいる」という仏教があります
ご存知の、奈良の興福寺や薬師寺の法相宗や三論宗です
まあ、皇室が奈良から京都に引っ越してくださったおかげで、仏性が無い人がいるという説は主流派にはなりませんでした
涅槃経の存在がありますから、仏性を否定するのは、ちと無理がありますが、なぜか理屈を積み上げると、無くすことができるようです
歴史的には、仏性が時代とともに強調されていくようになりました
日本仏教初期の奈良では「仏性がある人と無い人がいる」という説でしたが、平安時代になると「女性以外は仏性がある」に変わり、鎌倉時代になって「老若男女一切に仏性がある」ことに落ち着きました
本当のことを言うのに、社会的な制約があったと考えるべきでしょう
さて、この仏性は目に見えません
当然、手でも触れません
やっぱり無いんじゃないか、という疑問も当然わいてきます
あるとするなら、いったいどこにあるのか
言葉としての仏性は「色」にありますが、仏性そのものは「空」にある、と理論的には、そうなります
で、その仏性に触れる方法が、この図からわかります
「色」は脳内現象なわけですから、つまり「自己」です
「自己」の都合を忘れてしまえば、「空」だけになります
止「自己の都合を忘れ」、観「空だけになる」
広い意味の止観ですね
これ、理屈です
よく言う
「我を忘れて没頭する」
「無我夢中で」
ですね
で、これ、なんでも夢中ならいいと、そんな都合のいいことは無いわけで
対象が「空」である必要があります
それで、わかりやすい便利な言葉がないか、探してみると
「己を忘れて、他を利するは、慈悲の極みなり」 伝教大師
伝教大師は比叡山の天台宗の開祖ですが、この比叡山で、日本仏教の天才達は一度は修行し勉学しているのです
法然・浄土宗(10年)、親鸞・浄土真宗(20年)、道元・曹洞宗(4年)、栄西・臨済宗(14年)、日蓮・日蓮宗(6年)など
括弧の中の数字は、比叡山で天台宗の修行をした、およその年数です
「忘己利他」が、日本仏教の根底にある言葉だと言っていいでしょう
つまり
我を忘れて、誰かのために働く
無我夢中で、人助けをする
その時に、自分自身の仏性に出会うのです
Meditation of JIHI
昔話を少し
もう7年前になりますが
日本にスピリチュアルという言葉を根付かせた翻訳家のYさん(天女座の矢吹さんが瞑想CDに曲をつけてらっしゃいます)のご縁の方で、アメリカ人のB君がうちに遊びにきました
奈良で鹿のスケッチをしたり、地下足袋が欲しいと言い出して、足が大きくて合うのがなく、あちこち探したり、モンゴルのホーミーをやってみせてくれたり、面白かった
お父上は、イスラムのスーフィーを信仰してるんだそうで、いろいろ興味深かったですよ
このスーフィーは、日本では知る人は少ないですが、イスラムの密教で、方法論は密教に酷似しています
おそらく、インドからイスラムへの影響があったのでしょう
極めて、精緻で高度です
そのB君が、瞑想をしたいと言い出した
で、片言の英語でレクチャーすることになりました
その時に書いた図がこれです
慈悲の瞑想
仏さんは根源とつながっている
慈悲によって、つながっている
慈悲とは、愛ある智慧、智慧ある愛
あなたの真心と仏さんが、つながる
目の前の仏像とあなたは、この世界にいる
仏像の根源は因果を越えたところにある
あなたは慈悲によって根源とつながる
How to
かすかに微笑む(モナリザのように)
息を吸うとき 慈悲(love and wisedom)が体にはいる ありったけのイメージで思う
息を吐くとき 感謝しながら吐く
あなたの中に元々ある、すばらしい心が、仏の慈悲に洗われて、輝く
自分が自分に目覚める それを「悟り」という
リラックスして
1分でも3分でも5分でも、15分、30分でもいいからやる
どこでもできる
疲れたらやめる がんばる必要はない
いつでもできる
Easy and Simple
と、これを、12月の寒いお堂で、2時間、B君一人で、真剣にやりました
よく、修行などしても効果がない、と言う人がいます
僕は、高野山大学の学生の修行の監督もしましたが、「真剣にやれば」効果はすぐでます
ただし、「真剣にやれば」です、ここ大事です
日本では、仏教は、風景のようにありふれた存在で、特段の興味がないのが普通でしょう
しかし、はるばるアメリカから来て、荘厳なお堂に坐れば、それはそれは、気合が入ります
この、真剣さ、気合、覚悟、といったものは、言われてできるものでもなく、その人の人生、めぐり合わせ、などが噛み合って、初めてスイッチが入ります
理屈など、いくら言っても、スイッチは入らないのです
「人をみて法を説け」とは昔から言われている言葉ですが、B君の真剣さを見ていて、改めて、その意味を納得したのです
Out On A Limb
止(感覚遮断して)、観(意識変容状態になる)
ですから、理論的には、また、実際に、効果はあります
実は、宇宙空間で無重力状態になると、重力というストレスから開放され、意識変容状態に入りやすくなると考えられます
よく、宇宙飛行士が、「宇宙空間から地球を見て人生観が変わった」という話をしますが、Out On A Limbなんですねぇ
ですから、止観というと坐禅にすぐ結びつけるのですが、実は、バリエーションが多岐に広がっているのです
止(シャマタ、samatha)、観(ヴィパサナ、vipassana)
止(坐して)、観(禅定に入る)
止(己を忘れて)、観(他を利する)
止(感覚遮断して)、観(意識変容状態になる)
応用範囲が広そうですね
なんだ単純だ・・・・には、ならないんですよ、これが
止のほうは、まあ、単純そうなんですが、これ、居眠りとどこが違うのか
観は、その内容は、なんでもいいわけじゃない
まあ、それでも、この止観という構造というか概念は、基本中の基本ということでいいと思います
止観と加持
世界を感覚器官を通じて認識しているというのが、仏教の出発点です
眼耳鼻舌身の五感と、意識ですね
まあ、脳という言葉は仏教経典には無いです
時間と空間、苦楽といった感情など、全て意識が感じているのを唯識
時間と空間、苦楽といった感情が生じる以前の、感じられる前の世界を空
今、あなたはモニターを見てますが、眼で見て、意識で思ってるわけです(唯識)
で、眼をパッとつぶったら、モニターが月に飛んでいく・・・・・わけは無く、モニターはそこにあるのですが、見てないのだから本当はどうなっているかわからないのです(空)
この、唯識(ゆいしき)と空(くう)が、仏教の基本的立場です
唯識観と空観といいます
唯識観と空観が、歴史的に洗練され、仏滅後1000年位で密教になります
唯識観を仏画で表現したのが、密教の金剛界曼荼羅になり
空観は胎蔵曼荼羅になります
これを般若心経では、「色即是空」と表現しています
止観は、忘我、感覚制御、感覚遮断、などにより、自分自身の「我」を制限することで「空」だけになろうとします
たとえば、断食、荒行などもありますし、坐禅、写経、経典読誦、念仏、唱題、真言念誦なども「忘我と精神集中の組み合わせ」による、広義の止観と言えます
また、奉仕活動、職業を通じた社会貢献も、「私利私欲を制限して真実を行う」意味で、もっと広げれば止観に含むことができます
仏教の歴史で最も新しく成立したのが密教です
密教では止観から発展して、加持という概念に進化します
「仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく」 即身成仏義 弘法大師
どうしてこれが進化と言えるかというと
止観だけでは、自分を捨てることだけが強調され、仏の側からの働きかけが説明されないからです
止観を実践すれば、止観を完成した存在がいることになるわけで、つまり、仏や菩薩が働いていると
天台宗も密教なので、基本構造は全くいっしょです
比叡山を母山とする、念仏、法華は、この概念を整理して
阿弥陀如来を「加」としたら念仏
法華経を「加」としたら法華
と、実践しやすく改良したと言うことができます
禅宗は止観だけを徹底した、ということですね
このように見てみると、日本仏教が、止観と加持を組み合わせて、大乗仏教を本当の意味で完成させた、と言えるのではないでしょうか
僕は
理論に裏打ちされた具体的実践方法がある
一神教のような排他性がない
ことだけに限定しても、西洋哲学、キリスト教、イスラムよりも、仏教は「人に優しい」宗教だと思いますよ
共通の心の仕組み
密教に月輪観(がちりんかん)というのがあります
自分の胸中に月がある、と想います
「想え、胸中に月輪あり」などと書かれています
上座仏教にも、よく似た瞑想があります
白い月輪だけでなく、赤や青とか、いろいろな色でするようです
ほとんどの人は、出来もしないことが書かれている、と想っているのでしょう
密教経典には呪文を唱えて空を飛ぶとか、死者が蘇るとか、荒唐無稽という他はないようなことが色々書かれていますから、実際に、本当に、ありありと見える人がいるのでしょうか
でも、どうやら月が見える人はいるようです
円相 白隠 (1686-1769)
Paradise: Ascent of the Blessed
洋の東西を問わず、宗教を問わず、人間に「共通の心の仕組み」があると考えるべきなのでしょう
解剖学的に言えば、脳の機能は人類共通、という言い方ですね
宗教が世俗的権威主義に利用され、脚色され、踏み台にされ、ゆがめられてきたのが人間の歴史です
また、その宗教を、金儲けと、傲慢さと、無知の、隠れ蓑にして利用したのです
キリスト教やイスラムなどの啓示宗教は、開祖の言葉が「真実かどうかを検証する」手段がありません
信じるか、信じないか、選択するだけです
仏教は、瞑想によって検証され、実際に進化を続けています
(たとえば、本地垂迹説といって、日本の神様の本地(つまり本質)は仏菩薩だ、という説を発明したり)
仏教徒としては、すでに獲得した既得権に安住せず、まだまだ検証と進化を続ける必要があると思いますよ
理論的には、全ての宗教を統合した瞑想技術など、出来そうですけどね
で、その一つの入り口が
癒される瞑想、というわけです
図解仏教 苦厄から逃れる道
今、あなたはモニターを見てますが、眼で見て、意識で思ってるわけです
これを、どう名づけてもいいのですが、自分が今生きているという素朴な実感ですね
で、眼をパッとつぶったら、モニターが月に飛んでいく・・・・・わけは無く、モニターはそこにあるのですが、見てないのだから本当はどうなっているかわからないのです
見てないので、わからないが、ある
この感じる前の世界を、一くくりにしてしまえば、
時間も空間も無い(見てないんだからあたりまえですが)
苦も楽も無い(感じる前の世界ですからね)
一つでも多くでもない(見てないんだから数えられません)
同じでも違うでもない
生じるでも滅するでもない
去るでも来るでもない(くどいですが、お経に書いてあるんです)
で、これ、感じるということは、「自分勝手」「自己中心」「我田引水」などが、どうしても含まれます
人間の不幸の、根本原因と言えるでしょう
仏教的には、この歪みを正さなければ幸せにはなれないことになります
だから、仏の教えが必要だと
仏教の2500年の歴史の中で、様々に理論が考えられてきました
禅
「自分」というものを、限りなく小さくする、ということなんですが、自分で自分を否定することにもつながるわけで、苦行と感じる人もあるかもしれません
でも、理屈どおりにやれば、効果はあります
戒律を厳格に保って精進努力することが必要になりますが、出来る人もいれば、成就した人も多いのです
しかし、親鸞さんなどに言わせれば、「普通の人には無理だ」ということになります
密教
身(印)口(真言)意(観念)全部を使うのが密教です
仏からの働きかけを、身口意(しんくい)で受け止める、ということです
この図でいうと
加が阿弥陀仏ならーーー>念仏
法華経ならーーーー>題目
など、普通の人でも実践しやすい方法が編み出されてきました
やや脱線して言えば
加を
神とすればーーー>神道、キリスト教、イスラム
なども、この図で説明できることになります
それでも、神仏に頼りきって、「自助努力は必要ない」という考え方になる可能性もあるし、「自分の信じる神以外は拝むな」という人もでてくるのです
一心三観
いままでの図で見ると、右と左の丸がバラバラなんですね
それが、統合されました
これで、仏の働きと、自助努力の両方が必要、という説明が完成します
出家-->真実の生活-->空
在家-->仮の生活-->仮
形に捉われない生活-->現在の日本仏教-->中
慈悲
神仏がどんなに偉くても
朝起きて、かわりにトイレに行ってくれるわけでもなく
ご飯をかわりに食べてくれるわけでもありません
生きていくのは、自分なのです
では、いかに生きるのか
身近な表現で言えば、理想だけ追求してもダメで、現実だけ重視してもダメなんです
理想と現実、両方あるのが人生です
理想でもない、現実でもない、なにが重要なのかというと、慈悲だというのが仏の教えです
ですから、「慈悲とは何か」「自分になにが出来るのか」を考え続け、身口意で表現するのが仏教徒、ということです
それが、「心の歪み」を原因とする、様々な苦厄から逃れる道だということです
閉じられた本を読む
「止観」と「加持」を組み合わせて、難しく考えれば「一心三観」となるのですが、仏教は組み立てられています
で、これ、「空」を信頼というか、絶対的に信用しなければ成り立ちません
この図で言えば、感覚器官を休止するだけで「空」だけになりそうなんですが
それでは、居眠りでも同じことですね
では「空」とはなにか?
ここが難しいところで、説明してしまったら、それは「色」になってしまいます
感じる前の世界なわけですから、まあ、「果分不可説」なわけです
それではあまりに不親切なので、仏教の代表的な解釈をご紹介しますが、仏教史最大の学者のナーガルジュナ(龍樹)の説ですけど
八不(はっぷ)といって
一異、同断、生滅、去来の八つを
一つでもなく異なってもいない、同じでもなく断絶してもいない、生じるでもないし滅するでもない、去るでもなく来るでもない
と定義していて、いわば仏教の基本セオリーです
それで、僕はこれを量子論でいう、Suerpositionと近似する概念だと考えているわけです
Quantum Sense
http://www.chohoji.or.jp/archives/quantumsense.htm
このリンク先は長文で、しかも、わかり易くはないです(^^;;
さわりは、こんな感じです
i半導体中で量子もつれの生成と検知に成功
「重ね合わせ という概念は、何らかの物体が同時に2つの状態で存在できる現象を意味しています これはとても妙なことで、私たちの日常生活では経験できないことです?当然、量子力学を創り出した物理学者さえも理解に苦しむ大難問でした
たとえば私がここに座っている状態と向こうの方に座っている状態は想像できます
でも、同時に両方に座っている状態は想像できません
しかし、量子力学では、まさに重ね合わせの原理によりこれが可能です
このように原子、電子、分子などは同時に2つの状態で存在することができ、この概念が量子技術を強力なものにします
重ね合わせのさらに延長上にエンタングルメントがあります
これには2つの量子的物体が必要です
この2つが絡み合う(エンタングルメントentanglements)と、個々の物体を分けて考えることはできません
エンタングルした2つの物体を宇宙の両端まで引き離したとしても、片方の状態はもう片方の状態に影響を及ぼすという時空を超えた相関をもちます」
さて、ともかく、無垢で清浄であっても、「空」そのものは、どうやっても説明できないわけです
で、それを、どう信用しろと?
これですね
「空」は、感覚器官を通じて脳内に印象を形成して初めて「色」として認識され、意味を持ちます
閉じられた本が、読まれるように
「空」は、読まれずにいる本のように、あなたに読んでもらうのを待っているのです
読まれずにいる無数の物語が「空」の中にあるのです
止観を例にすれば、感覚器官を止めるだけでは、ただの屍です
慈悲や愛は、自分でつかみ取らなければなりません
あなたが慈悲を感じれば、その時、慈悲があります
あなたが愛を行えば、それが愛です
座して待っていても、慈悲は、「空」の中で眠り続けるだけです
「神は愛だ」とか「仏は慈悲深い」とかは定義の問題で、イメージです
あなたがなんにもしなければ、慈悲は「空」の中で眠り続け、はいそれまでよ、です
当たり前の話ですけど
ちょっと、くだけたたとえで言うと
脳内お花畑を勝手に信じ込み、世界に広めても、それは個人的妄想の拡大でしかありません
「私利私欲を捨て、考えうる限りの事実関係を把握し、だれを笑顔にするかよく考え、出来る限りの努力をする」ということではないでしょうか
間違いや、失敗があるかもしれませんが、その時は、もういちど「空」に戻ればいいのです
entanglementsと慈悲
量子もつれ(エンタングルメント(entanglements))
2つの物体を宇宙の両端まで引き離したとしても、片方の状態はもう片方の状態に影響を及ぼすという時空を超えた相関をもつ
「量子もつれ」が、華厳経でいう「無尽重々縁起」や仏教の考える「慈悲」と物理学との接点だ、と考えています
いつもの図ですけれど
この「空」は、世界に「一つ」しかありません
ま、これは正確な言い方ではなく、「一つ」というのは、数えた後で脳内に形成される認識であって、実際の「空」は、数える以前の状態でそこにあるわけです
こういう時、仏教に便利な言い方があって、「一如、いちにょ」(ひとつのごとく)と言います
数えたら「一つ」なわけですが、それを言ったら「色」になってしまうので、「如」をつけて「空」であることを表現します
「空」は、そもそも数えてしまったら「色」になってしまいますから、数えませんが、いくつもあるということでもなくて、「一如」であると
たとえば、仏は向うから来るから、来るが如きで、如来です
祈ったからとか、拝んだから、頼んだから来るのではなくて、仏の都合(つまり、衆生を救おうという請願)で向うから来ます
それを、「仏が来る」と言ってしまったら、脳内に形成される「色」になってしまうから「如来」と、厳密に表現してるわけです
ですから、ちょっと常識というか日常の感覚とかけ離れていますが
目の前のモニターは、ぱっと目をつぶれば、「空」になるわけで
地球の裏側と繋がって「一如」になります
あ、これ、ネットワークがオンラインでなくても「空」ですから繋がっていることになります
これを、人間の存在や、心にも当てはめることができます
我々は、地球のこちら側と裏側とでは、別々の角度から、身の回りのことを、見たり聞いたり、全く別々のことを感じているのですが、地球は一つしかありません
これは、ご理解いただけると思います
同じように、「空」も「一如」ですから、あっちとこっちで別々の世界を認識していても、実は「一如」の世界を感じているのです
つまり、原則的に言って、こちら側でしたことは、反対側にも影響します
感じる前の世界は全て「空」ですから、どこまでも、宇宙の果ての向こう側どころか、過去や未来とも繋がっています
これを華厳経で「無尽重々縁起」と言ってるわけです
「片方の状態はもう片方の状態に影響を及ぼすという時空を超えた相関をもつ」まさにentanglementsですね
繋がっているのですから、「共感」や「感動の共有」が可能です
仏教で言う、他心通(他人や動物の心がわかる)、神足通(遠隔地にあるものに触れることができる)なども、その延長上で可能になってきます
それが
「他人の苦痛」を我がことのように共有する
「他人の喜び」が我がことのように嬉しい
困った人がいれば、何かせずにいられない
といった、素朴な感情の理由です
ですから仏教的には、「慈悲」は「空」から生まれます
打算、利害、損得といった「我」から生じる思惑とは別世界に、慈悲はあるのです
私利私欲を忘れて誰かを助けるのは、実は、他人を助けているのではなくて、自分自身を助けているのです
だから、喜んでもらえれば我がことのように嬉しいし、見返りがあればそれに越したことはないけれど、特に見返りを求めない
それが、慈悲です
癒される瞑想が、なぜ必要なのか
地獄はあるのか?
はい、地獄はあります
お経に書いてあります
「地獄を見た」という人もあるでしょう
ただ、地獄にいるから苦しい、と単純ではないようです
「地獄に仏」という言葉がありますが、地獄にいらっしゃる仏様もあるわけで、おそらく、仏様は地獄にいても苦しくはないのでしょう
我々は、普通に漫然と生きていると、地獄に行く可能性が非常に高いです
なぜならば
人間は、感覚器官を通じて外界を脳内に再構築して、それを認識とか経験、学習、知識と呼んで暮らしています
そもそも、脳に外界の情報が入力されるときに、自分にとって有利か不利か、安全か危険かを取捨選択しています
また、せっかく取捨選択して学習、経験しても、忘れてしまうこともあります
つまり、外界にあること、そのものが脳内に再構築されるのではなく、かなり、自分勝手な取捨選択をしたものが取り入れられているのです
そして、これは、人間で有る限り、避けられないことです
自分で真実だと確信していることも、ありのままの真実を自分なりに脚色したものであるのです
そこには、ありとあらゆる誤謬や勘違いが入り込む可能性があり
それは、構造的に、避けられないのです
程度の差こそあれ、ありのままの真実にあらざる認識に基づいて生きていけば、脱線しないほうが不思議です
その危険性を自覚しないで生きていれば、当然に、地獄に行く可能性が高くなるという理屈です
苦とか楽、といった感情は、自分がどう思うかということですから、自分の脳内にあると言えるわけで、自分でなんとかなりそうです
時間、空間といった普通の実感も、仏教的に言えば、脳内の産物です
それは、生きて感じるから、時間があって空間があるのであって、感じなければ、まあ、有るとも無いとも言えません
また、生死を感じるというか、生きていくのも自分だし、死ぬのも自分ですから、脳内の感情と言うこともできるわけです
苦楽生死といった、我々の置かれた現実は、仏教的に言えば、感じる前の世界には無く、感覚器官と脳によって歪めて感じたから存在する感覚だということになります
苦楽生死によって引き起こされる「孤独と不安」は、自分で解決する他はなく、どんなに偉い神様や仏様も、身代わりにはなってくれません
何回も言うフレーズですが
朝起きて、かわりに便所に行ってくれるわけでもなく、腹が減ったら、かわりにご飯を食べてくれるわけでもありません
生きていくのは自分です
ここで、解決のヒントになるのは「地獄に仏」という言葉です
たとえ地獄にいても、心が仏のごとくであれば、「孤独と不安」は癒されるのです
自分の都合を一先ず忘れて、相手の立場で考えてみて、出来ることから少しづつでもしていく、ということではないでしょうか
「孤独と不安」から、本当に逃れる活路は、他には無いです
利害、得失を追い求めても、不愉快な現実がいつか立ちはだかります
夢や理想は、思うだけ、語るだけでは得られません
そして、「
癒される瞑想」が、やはり必要です
いったん、自分がしがみついている脳内現実から離れなければなりません
相手が無くても出来ますから、比較的身近で簡単で、本質的です
癒される瞑想の仕方
あなたが一番信頼する光に意識を集中します
リラックスして
目をつぶって
ほほえんで(大事なコツです)
無条件に全てを赦し救う心を感じながら
静かに息を吸って
無条件に全てを赦し救う気持ちで
体の力を抜きながら 息をゆったり吐きます
それを繰り返して
光だけになります
疲れてきたらやめて
光に感謝を伝えます
信仰のある人は、その神仏が光です
特に信仰の無い人は、「お日様」が光ですね
自分に光が注がれるでけでなく、縁の有る人すべてに注がれると思いながらすると、より気持ちいいですよ
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