吉宗が寄進した香炉


 

吉宗は、紀州初代藩主の頼宣を敬愛し、八代将軍になってから長保寺に香呂を寄進しています


銅製香炉並朱漆塗香台

http://www.chohoji.or.jp/hounouhin2/kinkou-1.htm


吉宗が将軍になってからお寺に物を寄進したのは、これ一つだけです
吉宗にとっては特別のことだったのです
吉宗は、享保の改革で、質素倹約を目指しましたが、そのせいでお寺への寄進が無かったということがあると思います

 

香炉箱の蓋

 

享保10年に寄進されていますが、この年は吉宗が将軍になってちょうど10年目の節目の年です
また、吉宗が将軍になった時、大赤字で引き継いだ幕府の財政が、質素倹約の政治によって黒字に転換した年でもあります

吉宗は幕府の財政を立て直す決意で将軍になり、ようやく成果があがってきたことを先祖に報告する意味もあって、この香炉の寄進を思い立ったのかもしれません

この香呂は「南龍院の霊前へ」とわざわざ指定され寄進されました

南龍院とは初代藩主の徳川頼宣(よりのぶ)のことです

徳川家康の十男ですが、家康に一番かわいがられたと言われています

家康は戦国時代の人ですから、戦争に明け暮れて家族と暮らすということが全くできませんでした
それが、関ヶ原の戦いの後、戦争が一段落して家族と暮らす時間が持てるようになりました

関ヶ原の戦いの次の年に生まれたのが頼宣です

ですから、かわいがられたというのは、もののたとえで、実際は、かわいがる時間があった、いっしょに暮らす時間があったということです
しかしながら、事実上、一番長く家康と暮らし、生また時から18歳の時まで、家康が自分自身で全て仕込んだのが頼宣、ということになりました

残された着物から推定すると頼宣の身長は180cm位で、胆力に富み、思いやり深く、家康に非常に愛され、また、成長するにしたがい、恐れられました
18歳で紀州藩主になりましたが、江戸から遠い紀州の藩主になったのは、将軍家の安全のため江戸から遠ざける意味もあったと言われています


吉宗は、紀州の田舎から江戸に登って将軍になったのですが、初代将軍の家康、家康が手元に置いて仕込んで家康のことを最も知っている頼宣、頼宣の孫の吉宗と、家康以来の将軍家の精神の継承の正当性を天下に示す、大事な寄進でもあったのです

家康、頼宣、吉宗と徳川の精神が受け継がれたことを示すため、この香呂が長保寺に存在するのです

 



 


 


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