釈尊の弟子にハンドクという人がいた。仏伝には、立派な坊さんばかり登場するように思いがちだが、このハンドクという人は物覚えが悪くて有名になった坊さんである。とにかく何を聞いてもすぐ忘れる、どんな短い言葉も覚えられなかったらしい。それでも釈尊を信じ、立派な坊さんになりたいとがんばっていた。しかし、皆にいつも、物覚えが悪くて馬鹿にされていた。何を聞いても忘れてしまうのだから、まともな修行ができるわけがない。いったい何をしてウロウロしていたのか知らないが、本人は坊さん達といっしょにいるのが好きだったのだろう。だが遂に、自分の馬鹿さ加減が自分で嫌になり、釈尊の元を去ろうと決意する。
「あー、俺はなんて物覚えが悪いんだろう。こんな馬鹿な俺では皆といっしょにおれない。」
そして、誰にも知られず一人でひっそり精舎を出て、寂しく泣きながらとぼとぼと道を歩いていった。精舎から離れた村はずれの道の角までやってきた、と、そこに釈尊が立っているではないか。ハンドクの気持ちを神通力で知り、先回りして待っていたのである。
「待て、ハンドク。行ってはならない。」
ハンドクはどんな有り難いお言葉も、忘れてしまうのだから修行ができない。いかにやさしく諭されても、忘れてしまうのである。自分で自分が情けなくて、修行を諦め、釈尊の元を去ろうとしたのである。が、その土壇場で釈尊から一つの法を授かる。釈尊は愚かなハンドクを哀れに思い、精舎の掃除を命じるのである。「きれいに、きれいに」と唱えながら掃除をする。大智度論ではこれを陀羅尼の一種であると解説している。そして、ハンドクはただそれだけで悟りを開くのである。
ある日、ハンドクは尼僧さんたちに法話をするよう命じられる。尼僧さんたちは、馬鹿で有名なハンドクが来るというので、難しい質問をして、からかってやろうと待ちかまえていた。ハンドクは訥々と静かに、釈尊から掃除の法を授かり遂に悟りを開いた話しをした。尼僧さんたちは手ぐすね引いて待ちかまえていたが、悟りを開いた人の威厳に圧倒され、一言も発することが出来なかった。
法華経に提婆品がある理由を考えてみたい。宝塔に多宝仏と座って説法する、法華経の中心部分にある。提婆品では龍女成仏が有名だが、法華経の大事な部分に、数々の情けない悪業を為し、釈尊を殺そうとした極悪人の提婆をわざわざ登場させるにはそれなりの意味があるのだろう。提婆は前生で釈尊に法華経を教えた恩人だそうである。これ以上はない極め付きの悪党が、最大の恩人になっている。提婆は、遠い未来に仏となって人々を導くという。
釈尊の、大慈悲の力だと思う。愚かなハンドクが悟りを開き、極悪人が成仏する。末世の我々の為にある話ではないだろうか。出来のいい人が立派な坊さんになる話なら、わざわざ知る必要はない。出来の悪いのが立派になるから、知りたいし有り難いのである。これなら、私のような人間でもいつか悟りが開けそうだ。
近年の仏教学の進展は目覚ましいものがある。漢文を初め、パーリ語、サンスクリット語、チベット語の諸文献も比較的簡単に目にすることができるようになった。毎年のように膨大な資料を駆使した、分厚い学術書が出版される。ただ、こうした仏教学の活況とは裏腹に、我々の日常の宗教心は荒廃しつつあると言っていいと思う。仏教学がすなわち我々の今の心の問題に届かないことは、経済学がそのまま不景気の解決に役立たないことにも似ている。経済学の高度な理論を身につけたとされる人たちが、あっさりと会社を潰してしまう。理屈どおり世の中を動かせるなら、誰でも億万長者で、不況も恐慌もないはずだが、そうはいかない。それでも、役立たずの学問とは誰にも言われない。
恐らくは、私が今までここで書いた文章は、仏教学の学問的な訓練をかなり積んだ方にもご覧頂いていると思う。幼稚な論旨に見えるかもしれない。一つの事を断定的に言いきるには、学問的な手順を踏んだ場合、かなり大変な作業となることは私も知っている。よくよく論証していけば、私の考えているようなことは、蜃気楼のように消えてしまうものかもしれない。ただ、ここで視点を変えてみて頂きたいのだが、日常の生活は結論が出ていなければ成り立たない事が、非常に多いのである。暫定的にしろ、一つの結論をいつも迫られる。じっくりと考える時間が与えられる事もあるが、ほとんどの場合、とっさの判断が必要になる。「最悪」と「悪」のどちらかを選ばなければならないような場面もざらにある。そういった現実の生活の中では、最高の学問的成果に導かれた結論が出るのを悠長に待ってはいられない。大体、魅力的な結論はめったと出てこない。学問の世界では、一つの成果は新たな疑問の出発点となるのである。理解が進んだ分、膨大で複雑になりすぎた。各方面の学問が進んでいるはずの現代社会で、あっさり考える事をやめてしまう人々もけっこう多い。たぶん優秀な頭脳を持ち、かなりの時間を勉強に費やしたはずの人たちが、あっさりと幼稚な新興宗教にはまるのも目新しい現象ではない。分厚く、難しそうで、けっこう高価な宗教書など読もうという人はもともと少ない。たしかに素晴らしい事が書かれているのだが、全部読んで理解して、人生の糧としようとなると、これまたもっと少なくなる。いろいろ読んだところで、ああだこうだと混ぜ返される。結果として、疑問がもっと深まるか、誰かが作った手軽で分かり易い理論に洗脳されることとなる。
現代は、平安時代や鎌倉時代のようなシンプルな時代ではない。伝統的宗派の教説は、元々もっと単純な時代の素朴な人々を対象としている。祖師は大事にしなければならないが、「なぞり書き」はもうとっくに無理な段階に来ているのである。ならばどうするか、という事になるのだが、理屈をこね上げても深みにはまるだけでどこにも行き着かない。誰かの理屈を追うのを適当なところで切り上げて、自分自身で本質を経験するしかない。釈尊も諭しているではないか、「自灯明、法灯明」と。
一人の人間の、僅かな人生の中で出来るかぎりの事。これが、その人の人生の全てである。我が身を振り返れば、一日の中でまともに活動している時間は以外と短い。その短い時間で消化できるだけの事しか出来ないのが人生である。料理全般、フランス料理・中華料理・イタリア料理・和食等色々あるが、一回の食事で食べることの出来る量は限られている。人類が今まで蓄積した様々な含蓄や高度な感性も、一度しか許されないこの人生で全てが味わえるという事ではないのである。とにかく、この人生の為の、一回分の食事を調えなければならない。誰もが、美味しい、見た目が美しい、滋養に満ちた、そして愛情のこもった料理が食べたいのである。理論の応酬はメニューを見ながら、腹を空かしている状態に似ている。さっさと決めて、食べ始める必要がある。手作りの粗末な献立表でも、料理が素晴らしければそれでいいではないか。そして、愛情がこもっているかどうかが、きっと、一番大切な事だと思う。「美味しかったよ」と、教えてくれる親切な人もきっといる。
東南アジアで現在一般に行われている仏教は、すべてパーリ語の経典を用いている。パーリ語自体が釈尊の時代からそれほど離れない、古い言葉だろうと言われている。戒律は厳しく守られ続けている。我々日本人の解釈からすれば小乗仏教ということなるのだが、釈尊の時代からほとんど姿を変えずに続いている純粋仏教である。比べて言えば、我々の現在の仏教は、お好み焼き仏教である。色々な解釈を織り交ぜて、口に合う物に変化してしまっている。釈尊の精神は、よく探さなければ見つからない。
さて、このパーリ仏典の中に清浄道論という論書がある。この中に、パーリ仏教の修行方法が集大成されている。密教で言う儀軌のようなものにあたる。恐らくは、釈尊の時代からほとんど変わらずに伝承された修行法が、懇切丁寧に解説されている。釈尊が弟子に指導した修行法は、このようなものだったかもしれない。もちろん、今でも東南アジアの仏教界で広く行われている。なんでも、アメリカなど欧米の仏教研究ではこのパーリ仏教の修行法が正統仏教であるとして広く認められ、盛んに研究されているらしい。日本などの大乗仏教は、僻地に伝わった亜流という認識かもしれない。現在、中国大陸にも仏教はあるが、台湾からの逆輸入らしく、私などにもどのようなものなのか見当がつかない。仏教のまともな研究対象になるには時間がかかるだろう。外から見れば、日本の伝教大師や弘法大師なども、極東の島で仏教の地域変化形をつくった人、位にしか見えないだろう。当然、研究対象になったとしても、仏教が知りたいから研究する対象ではなく、歴史上の人物の研究、あるいは日本文化研究の一部といったところではないだろうか。日本人の精神性は、たぶん、それほど高く評価されていないだろうと思う。
清浄道論のコンセプトは「瞑想によって仏となる」、ということになると思う。このこと自体は仏教では普通に見られるコンセプトである。清浄道論ではその瞑想の方法が解説してある。一口で言うと、止と観である。感覚を静めるのが止、瞑想の対象となるものを想起するのが観、ということになる。原理そのものは極めて単純で、これで仏になれるのなら、何万人もの仏が既にいなければならないと思うが、どうもそうはならないらしい。実際は極めて複雑で広範囲のものである。この止観は中国仏教においても主要な修行法で、天台大師は摩訶止観をまとめている。が、そこで概念が進化する。「縁を法界に繋ぐ」という表現になる。繋ぐというのは、サスクリット語ではヨーガとなる。英語のyokeの語源らしい。行者の心「縁」と、仏の境地「法界」を繋ぐ。つまりインド風に言えばヨガなのである。で、摩訶止観の次に出現するのが密教である。密教では、ここの所が加持となる。仏の太陽が遍く照らすのが加、行者の心にその日が映るのが持、ということになる。摩訶止観では眼耳舌身意の受動的感覚の制御を説いていたのが密教では能動的な意味に洗練され、身口意の三密に整理される。瞑想法は止観、繋縁法界、三密加持と改良され、この三密加持を完成させたのは弘法大師である。インドにも同様の流れがあったと思われるが、一度全く消滅してしまったのだから、残念ながらお話に参加できない。
天台宗では密教は釈尊の説法の延長上に置かれるが、弘法大師は釈尊の説法に一線を画し大日如来中心の世界観で密教を解釈する。ここで東南アジアに伝わった上座部系の仏教と、中国方面へと伝わった大衆部系の仏教があることを思い出していただきたい。大衆部系の仏教は釈尊の教えを時代や地域にあった形に解釈しなおすことで発展してきた。密教も大衆部の流れに入ると思う。この大衆部の仏教は中国で極限に達したかと思われたが、道士にそそのかされた暴君に何回も跡形もなく破壊される。そして、歴史の偶然か、極東の島に伝えられ、大衆部の仏教は大乗仏教として伝教大師によって完成されるのである。この、大衆部の極致の大乗仏教と密教を同時に伝承しているのは、世界で天台宗だけである。菩薩の三密加持、ということになる。釈尊の加持力によって慈悲の実践を続ける、といった意味になるだろうか。仏教は、日本に於いて極限まで発展したと言いたい。
伝教大師と弘法大師の確執から始まって、天台と真言は密教に対する見解を微妙に異にしてきた。やっている事の見かけはほとんど違わない。一つ一つの法具は全く同じ物を使う。現在、お堂の荘厳だけ見て、天台宗か真言宗か違いが分かる人はよほど密教に詳しい人だろう。
弘法大師は伝教大師が理趣釋経を借用するのを激しく拒絶した。これは、書信が残されているので間違いない事実である。今では、この経巻を誰でも見ようと思えば見ることができる。門外不出ということではない。結果から見れば、あれはいったい何だったのか、ということになる。弘法大師としては、やはり伝教大師が書物によって密教が理解できるように思っている様に見え、許し難い事だったのかも知れぬ。結局、伝教大師の方は弘法大師と競り合うことよりも、天台宗を大乗仏教として盤石のものにすることに興味が移っていった。伝教大師は密教がどうこうというよりは、仏教の要に菩薩としての生き方を据えようとした。伝教大師にとって、密教は菩薩が修学すべき教えの一つであり、菩薩はいかにあるべきかが最優先する問題である。弘法大師は真言密教を完成させることに心血を注ぎ、入定留身することで完成させた。真言宗の加持力の根元は弘法大師の入定留身である。両者の立場の違いは、決着が付くという事もなく、そのまま現在に及んでいる。
伝教大師は弘法大師ほど密教をよく知らなかったことは事実だろう。ただ、天台宗では伝教大師の後、慈覚大師、智証大師と入唐し、その後五大院安然や元三大師などを排出し、むしろ弘法大師の知らない最新の密教を導入し身につけることになった。結局、弘法大師を避けて歩いていって一人前になった。慈覚大師などは密教を理密(理論的・教理的密教)・事密(三密の方法)に分け、法華経・阿弥陀経は理密、いわゆる密教は理事ともに密であるとした。そして、この両者の間に優劣の差は無いと言う。全く差が無いのなら、手間のかかる密教はしなくて済むことになるが、三密は密教にしかない。分かりずらいが、慈覚大師の考え方を簡単に言えば、密教のほうが行き届いているという意味になると思う。ちょっと無理な譬えかもしれないが、良く切れるノコギリが一丁あれば木は切れる。ただ、横引き、立引き、糸鋸、電気鋸、チェーンソー等、色々持っていれば便利であるという事だろう。結果、伝教大師はどう思うか知らないが、日本天台は真言宗に勝るとも劣らない、密教だらけになってしまった。
現在では、経典の科学的検証や、インド・チベット・中国などの現地調査も進み、密教がインドで段階的に発達していった過程が明らかにされつつある。密教は、歴史的には、素朴な状態から始まり、洗練されていき、遂に集大成されたのであって、宗教的な優劣があるとか無いとかとは関係ない。弘法大師だけが優劣を言っている。顕薬塵を払い、真言蔵を開くと言わず、経論塵を払い、加持力蔵を開くと言えば、説得力が増すと思うが。
私も、弘法大師を崇拝する一人であるが、ちと理論を単純化し過ぎたなあと思える所もある。十住心論で天台を第八番目に配置しているが、そこでは観音経は取り上げるが、なぜか寿量品は無視されている。実際、真言宗の人で寿量品の意義を知らない人は多い。無量の寿命で法を説く釈尊は、まさに大日如来そのものである。常在鷲峯山で、天台的加持力の根元は釈尊になった。釈尊の加持力で不足なら、もう仏教はいらぬ。慈覚大師と智証大師は、入唐してわざわざこの釈尊イコール大日という点を念を押して確認している。かなり気になっていたらしいのだが、当然の常識であることが確認された。また、智証大師などは、法華経の釈迦如来を金剛界大日、多宝如来を胎蔵大日として、宝塔の中に二仏が並んで座り説法するのは、理智不二の徳を表すと解釈している。金胎不二を無理して繕う必要はない。弘法大師が生きていたらどう答えるのだろう。私なども、完成された釈尊の説法の延長線上に、大日経や金剛頂経が成立したとするのが仏教史的にも自然に思える。真言だけが別格で、蔵を開くというのは弘法大師の独創で、密教の無い時代の釈尊の十大弟子などは弘法大師に劣るという事になるのだろうか。又、弘法大師は華厳を天台の上に置くのだが、上とか下とか決めること自体、こじつけのような気もする。天台を最後に置いて、宝塔の説法から大日如来につなげばしっくりくると思うのだが。
釈尊自身は、自分の説法が一代で完全に完結したものになっていると考えていたと思う。無上の菩提に到達し、一切余すところ無く説き尽くしたと、自分で言っている。また、密教は、釈尊の口から出た説法が書き留められたものではない。つまり、密教が偽仏教である可能性は、検証されなければらない。
密教を信仰していくには、大げさな道具立てが必要である。灌頂などの都合で伽藍から離れられない。必然的に大きな経済的な後ろ盾がなければ成り立たず、そのため権力者から離れられず、平安時代には、密教が貴族宗教となるのを避けられなかった。中国では密教は、元々皇帝の宗教であるから、大げさであっても不思議はない。今でも、拝むのには金がかかり、それなりの設備が要るのである。釈尊のような自由な遊行など、真似したくてもできないし、托鉢だけでは修行を続けられない。城を捨て、家族を捨てて自己を見つめた釈尊の精神を尊重するなら、密教は仏教の仲間入りはできなくなる。
私は、密教が始まった必然性は、仏滅後を仏教徒はどのように考え過ごさなければならないかという問題を解決するため、純粋に精神的存在の仏陀が強く求められたからだと思う。仏滅後、釈尊が神格化され美化され、教義的に深化し、意義が拡大し、大日如来が見いだされたとするのが自然である。それと、現世利益だろう。だから、釈尊の精神から外れる危険を常に孕んでいるとも言える。むしろ、日本天台によって初めて、密教は仏教の中できちんと位置付けられたと言えるのではないか。弘法大師の考え方でいけば、釈尊がいてもいなくても密教は成り立つ。天台的に、釈尊の完成された教説が先ずあって、仏陀観が深まっていき不生不滅の大日につながるとするのが自然で、釈尊の説法は塵を払うだけという大日如来中心の解釈は、弘法大師だけの独創であろう。真言宗は弘法大師の天才的独創の部分が多いから、どうしても大師信仰から離れられない。弘法大師は真言宗の最後の拠り所である。端的に言えば、弘法大師すなわち大日如来である。入定留身がなければ真言宗は無くなっていたかもしれない。
伝教大師は密教を筆授で済むと考えている、と決めつけるのなら、これは濡れ衣である。伝教大師は、高尾で弘法大師から灌頂をわざわざ受けている。ただ、両者はしだいに疎遠になっていく。私は、伝教大師と弘法大師が疎遠になる一番の理由は感情的な問題だったように思う。これはこれで、けっこう根深い問題ではある。ずば抜けた力量の人が二人いて、対峙したということだろう。もう1200年も前の話である。感情を差し引いて考えると、伝教大師と弘法大師の立場の違いに行き着く。伝教大師は、250の戒律を捨てて大乗菩薩戒を守れば足りるとしたが、弘法大師は250の戒律は絶対に守らなければならないと考えた。これはつまり、大衆部と上座部の違いである。戒律を時代に合わせようとする大衆部と、釈尊の定めた僧伽の規律を不動のものとする上座部の違いが、仏滅後しばらくしてはっきりしてくる。今でも東南アジアには上座仏教しかない。そこでは俗人は俗人、僧は僧で別の世界に住む。清らかではあるが、も一つ親近感が湧かない。私などは、大衆部が言うべき事を言ってくれたおかげでこうして住職をしていられる。
弘法大師は上座仏教の中に密教を据えようとした。当然である。きちんとした密教を行うには大変な設備が必要である。作法も複雑で、大寺院の専門家の集団でなければ維持し継続できない。ただ、ここに一つの矛盾がある。元々密教は仏陀観を時代に合わせ拡大していって出現したものである。戒律を時代に合わせようとした大衆部の行き方である。実はこの大衆部の中から密教は出現するのである。大日如来は瑤洛を身に纏った、有髪の菩薩形であることを思って頂きたい。考え方としては、結果として天台の行き方が正鵠を射たものになってくる。もちろん、東南アジアの上座仏教には密教はかけらもない。ここでもまた、250の戒律の上に三摩耶戒を据えた弘法大師の行き方は独特のものになってしまう。現今、弘法大師のこの精神はどのように生かされているのだろうか。
天台宗は密教が本質的に持っている貴族性から抜け出すことができず、鎌倉時代になると大乗仏教の精神がはち切れて、一派を建てて独立する人が続出した。天台密教の次なる宗教運動は、密教の大衆化かもしれない。
真言密教は孤立しつつあるが完成度が高く日本人には使い勝手のいい98で、天台密教はようやく使えるようになってきた世界標準のDOS/Vといったところか。
虚空蔵菩薩求聞持法。虚空蔵菩薩の真言を100万返唱える。弘法大師が、奈良東大寺の勤操より伝授され、四国の山中や室戸岬の洞窟などで修行した。真言を唱えると谷が響きわたり、明けの明星が口に飛び込んだという。弘法大師の最も重要な神秘的体験である。根来寺を始めた興教大師も求聞持法を修行している。成就したとき、無数の佛菩薩が地より湧出したという。まじめに修行して成就したということで、高野の生臭坊主に強烈に嫉まれた。
現在、高野山で求聞持法を修行する者は年間一人か二人位はいるであろうか。連綿と受け継がれている。比叡山では回峯行の堂入とか、好相行の開白の時のような最重要の修行の時、座主がきちんと立ち会う。加行の開白の時などは代理の法会部長などになる。それが高野山では、私が知る限りではそういうことは聞かない。求聞持の開白などにも立ち会わない。勝手に修行しているような感じになる。やや、趣が違う。求聞持を成就したとされているのは、歴史上そう何人もいない。現今行われている方法でも、50日間、一日8時間位真言を唱え続ける大変な修行である。思い立ったらできるというような簡単なものではない。ちょっと扱いが不当なような気もするが、弘法大師も山中で人知れず修行したように、一切のしがらみから離れてするのがいいのかもしれぬ。
なんの為に求聞持をするかというと、記憶力が増すからだという事が言われている。奈良時代、官僧になるには、課題に与えられた経典を丸暗記しなければならなかった。記憶力を増進させる秘法が求聞持法だということになっていた。しかし、これは全くの認識不足である。密教の修行をする者が必ずしなければならない修行が求聞持法だというのが本当だろう。加行の前行であると言ってもよい。なぜか。胎蔵曼陀羅をよくご覧頂きたい。正面の入口の所にいる菩薩はどなたか。虚空蔵菩薩である。その次が般若菩薩、そして大日如来となる。弘法大師が心経秘鍵で般若菩薩を供養すべしと言っているのは、思いつきではない。求聞持法、般若菩薩の供養、そして大日如来にたどり着くのである。象徴的な意味が込められている。あれだけ弘法大師が重要だと指摘しているのに、求聞持の次に般若菩薩の供養をしたというのを聞かぬ。曼陀羅の意義を思って頂きたい。
長保寺では江戸時代、天台の四度加行が行われていた。加行の前行に文殊五洛叉法を修行することが決められていた。文殊菩薩の真言50万返を一週間で唱えなければならない。高野山でも昔は求聞持法と文殊五洛叉法両方が修されていたという。天台で文殊菩薩を先ず供養するのは、法華経が弥勒菩薩の問いに文殊菩薩が答えて始まるせいもあると思う。法華経の終わりには普賢菩薩が登場する。これはこれで、深い象徴的意味が込められている。
さて、ここでもう一度胎蔵曼陀羅をよくご覧頂きたい。曼陀羅の上にも実は門が開いている。入口は上下2カ所である。上の入口におられるのは、文殊菩薩である。次に釈迦如来。次に、空・無想・無願の一切遍智院、そして大日如来となる。
深秘。深秘。これを思うべし。曼陀羅を飾って拝めばいい、ということでは十分でないことを知るべきである。