長保寺の創建に関しては、一条天皇(980〜1011)の勅願により、慈覚大師の弟子で播磨国書写山円教寺を創建した性空(917〜1007)を開基として長保2年(1000)に創建し、寛仁元年(1017)に伽藍の造営が完了したとされている。すなわち、長保寺は一条天皇の勅願寺ということになるのであるが、これは長保寺に残存する応永24年9月21日の奥書を持つ「紀州海部郡浜仲庄長保寺縁起」(『慶徳山長保寺縁起并勧進状写』所収)や年代不明の「王代一覧抜書」(『長保寺記録抜書』所収)といったかなり後の時代の縁起の写本類(江戸時代のものと思われる)によって示されていることである。そしてこのような重要な事業であるにもかかわらず、長保寺以外の場に残る別系統の史料、例えば当時の天皇に近い貴族の日記である『御堂関白記』『小右記』『権記』『左経記』などでは全く確認することができない。
一般的に勅願寺あるいは御願寺というものについては、創建した天皇直筆の寺額(勅額)を賜り、その天皇の没後は位牌を本尊の脇に安置するものとして理解されている。ただその際、必ずしも天皇自身の発意によるものである必要はなく、貴族や僧侶の奏請により太政官が裁許する場合もあったということである。そしてこれは、天皇の意向とは全く無関係に、国家の直接的支配を回避して寺院を建立する動きにつながり、その傾向が10世紀後半以降顕著になるという見解も存する。このように考えるならば、長保寺の場合、荘園などを媒介として中央貴族と強い関係を持った在地の有力者が、貴族を通じて中央へ申請して勅願寺を建立したということも考えられないことではない。しかしいずれにしても、天皇や中央政府と無関係に勅願寺を建立することは不可能なのであり、中央の記録に全くその痕跡をとどめず、また都からかなり離れた寺院であることを否定できない長保寺の創建に関しては、いまだに未解明の部分が多いことは事実である。ただ、この時期に創建されていたかどうかという点に関しては別問題であり、後でふれてみたいと思う。
2 浜仲荘と長保寺
このように長保寺の創建期については、不明確な点が多いのであるが、平安時代末期以降は長保寺が所在した浜仲荘の推移の中で、長保寺の歴史をたどることが可能になる。
まず、江戸時代の史料ながら(『高野春秋』)、浜仲荘は12世紀半ばに摂関家の藤原忠実・頼長父子によって、高野山の金剛心院へ寄進されたことが認められる。すなわち、この記事を信用するならば、それ以前に浜仲荘は摂関家領の荘園になっていたことが判明するのであるが、摂関家領となる前が皇室領であったと限定して考える必要はない。
浜仲荘に関する確実な史料上の初見は、寿永2年(1183)閏10月22日の「摂政近衛基通御教書案」(仁和寺文書)であり、そこでは木曽義仲の浜仲荘の譲渡を求める申請を近衛基通が却下して、仁和寺が元通り知行することを命じている。この史料によれば、それ以前から近衛家が浜仲荘の本家職を、仁和寺が領家職をそれぞれ所有しており、仁和寺は金剛心院および浜仲荘を知行していたことが推定される。
しかしその後、近衛家は次第に浜仲荘に対する支配を後退させていったものと考えられ、鎌倉時代中期の建長5年(1253)10月21日の「近衛家所領目録」(近衛家文書)には、すでに進止には及ばない旨が記されている。一方仁和寺は、相変わらず浜仲荘に対する支配権を保持しているが、貞和2年(1346)10月27日の足利直義下知状案に引用している文永元年(1264)6月8日の「関東成敗状」によれば、浜仲荘は南方・北方に下地中分され、仁和寺は南方を進止するものの、北方は地頭湯浅氏が管領するようになっている。
長保寺はそれ以降、浜仲南荘に属するのであるが、この時期の長保寺の実態をよく表しているのが、永仁6年(1298)11月19日の「浜仲南荘惣田数注進状写」(高野山文書)である。そこでは、浜仲南荘には惣田数57町310歩が存在し、うち30町は金剛心院・真光院分に充てられるが、その他は荘園内外の寺社免田となっている。そのうち長保寺については「長保寺念仏免」「同堂塔免」が保証されており、あるいは「千部経田」「仏性田」「湯屋免」なども長保寺に関わるものかも知れない。ここで特に注目されるのが、念仏免である。
長保寺に古くから伝来する
「不断念仏式」(なお『長保寺記録抜書』には「不断念仏式奥書」という史料が引用されているが、その中に見える年紀や引用関係から考えると不断念仏式より後の時代に書写された式の奥書であると考えられる)は、鎌倉時代後期の長保寺における不断念仏の式次第を記したものであるが、それによると長保寺において不断念仏は大治3年(1128)に始まり、保元3年(1158)・正応2年(1289)の二度にわたる日数の改正を経て、少なくとも延慶2年(1309)まで継続していたことが分かる。この不断念仏は10月半ばごろ行われるものであるが、その実施の経費を捻出するために念仏免が設定されたのである。
ところで不断念仏とは、円仁が中国の五台山から五会念仏を常行三昧の作法として請来したのち、比叡山の常行三昧堂で仁寿元年(851)に初めて修したものである。本来の常行三昧における念仏は止観(心を対象に集中し観察する)成就の手段に過ぎなかったが、五会念仏では念仏そのものに絶対の価値を認め、懺悔滅罪による浄土往生の効用を期待するものとなり、自己目的化したということである。その結果、この称名念仏的な要素が9世紀から10世紀にかけての貴族・僧侶を中心とした自己救済的な浄土教的運動につながるものとして理解されるのが一般的である。時期的には降るが、長保寺の不断念仏式の敬白文の末尾で、阿弥陀如来と慈覚大師(円仁)に導かれて極楽往生を願っているのも、このような動きの一端を示しているといえよう。
すなわち、宗教的な観点から創立期の長保寺の実態を考えるためには、以上のような浄土教的信仰の展開を念頭にいれておく必要がある。長保寺の創建が、初期の念仏聖として著名な性空によるという伝承があるのも、そのことと無関係ではないであろう。
しかしその一方で、これまでみてきたように、長保寺の所在する浜仲(南)荘は、少なくとも12世紀半ばに摂関家から金剛心院に寄進されて以来、高野山や仁和寺といった真言宗寺院の傘下にあったことは否定できない事実である。そして、おそらく長保寺も浜仲荘に存在する限り、真言宗の影響を受けざるを得なかったことと思われる。このことは、一見すると天台宗の法会である不断念仏の存在と齟齬をきたしているような印象を与えている。
ただ、摂関期以降の天台宗における念仏の展開の一方で、称名念仏の中に真言陀羅尼的な死霊鎮送・怨魂調伏の機能も見いだされるという点も指摘されている。すなわち、この時期真言諸寺の僧侶・験者が鎮魂の仏事の場で、「念仏」として「陀羅尼」を読誦していた実例が知られ、阿弥陀称名念仏と真言陀羅尼は未分化の状態であったことが分かる。そもそも、常行三昧は天台宗の密教化に大きく関わった円仁によってもたらされたことからも、密教すなわち真言宗的な要素と無縁であるとは考えられないのである。
以上のように考えるならば、中世の荘園の領有関係の中で真言宗の影響下にあった長保寺において、天台宗の流れをくむ不断念仏が実施されていたとしても、それほど不思議ではないであろう。
更に、近世以降の寺院と異なり、中世の寺院、とくに学侶が存在して教義の研究を行っていた「学問寺」においては、様々な宗派の教えが混在していたことも指摘されている。つまり中世寺院においては、近世以降のような各宗派が峻別される状況は、まだ現れていないのである。また、このような状況の下で最も力を持ち得たのは、なんと言っても経済的な後盾を持っていた勢力であろう。長保寺において、近世以前に天台・真言あるいは法相と宗派が移動しているという伝承は、ある時点で卓越的であった教義の持ち主の存在と、現実の経済的基盤の存在との微妙な関係をふまえて、各勢力が自己主張するために後世に生み出されてきたものであると考えられる。
3 中世後期の長保寺
鎌倉時代後期以降、14世紀を中心に現在の長保寺の主要な伽藍が整備されたのであるが、嘉慶2年(1388)に再興された大門には妙法院宮尭仁法親王(永享2年(1430)没)筆の額が掛けられた(「長保寺大門額裏書」〔応永24年(1417)のもの〕による)。これは、確実に中世における天皇家との関係を示す唯一の事例であり、おそらくこのことによって、後の時代に長保寺が勅願寺院であることをより強く意識させることにつながったものと思われる(なお、「紀州浜仲庄長保寺縁起」によれば、長保寺には綸旨・院宣などの天皇家発給文書が宝蔵に保存されていたということであるが、天正13年(1585)に伽藍の一部と宝蔵が焼亡した際に失われたということである)。
一方、この時期の浜仲荘の動向に目を向けると、在地の武士の濫妨に対する仁和寺や金剛心院の抵抗がみられるようになる。たとえば、前掲の貞和2年(1346)の足利直義下知状によれば、地頭の湯浅八郎左衛門尉法師道尭(浜中北荘を管領)の暦応元年(1338)以来の押領に対して、仁和寺(御室雑掌良勝)は室町幕府へ訴え、地頭の押領を停止するとともに浜仲南荘の支配権を保持しえたことが分かる。しかし室町時代に入ると、今度は紀伊国の守護であった大内氏や畠山氏の浜仲南荘への押妨が目立つようになり、金剛心院や仁和寺の支配は次第に及ばなくなっていくのである。このような時期に長保寺の護摩堂で堅海によって書写されたのが、
大般若経600巻である。その跋文に、「入壇」(伝法や授戒のとき行者が潅頂壇に登って受法すること)や「金剛仏子」(密教の教えを奉じ、入壇・潅頂を済ませた者)などの真言宗系の用語が用いられていることから、宗教的にも真言宗の勢力が卓越していたものと思われる。そのため、後世の史料の中にはこの応永年間以降から真言宗に改宗したとするものがある(「長保寺堂社御改書留」〔元禄3年(1690)〕など)。
その後、金剛心院や仁和寺の浜仲南荘への支配は、史料上文明年間(1469〜1487)までしか確認することができず、おそらく全国的な荘園制の衰退と軌を一にして、中央の権門の傘下から離れたのであろう。それと同時に、長保寺は後盾となる権威を失い、一時的に衰退したと言われているが、中央の史料に見えないだけで実態は全く不明である。
高麗版の『妙法蓮華経要解』は、応仁元年(1467)9月19日に長保寺常任の有成によって寄進されたものであるが、残念ながらそれ以上の情報を提供するものではない。高麗版の版本をどのような経緯で、有成が入手したのかということも全く不明である。
このようにして、長保寺は中世の時代を終えるのであるが、前述したように戦国時代の天正13年(1585)に宝蔵などが焼亡した際に、貴重な史料が失われたことは、近世以前の長保寺の歴史を知る上で大きな障害となっている。
4 紀州徳川家菩提寺としての長保寺
戦国時代の終末期から江戸時代の初頭にかけて、快栄と恵尊の二人の僧侶が長保寺の整備に力をつくした。とくに、真言宗系の僧侶としては最後の人である恵尊(1581〜1655)は、元和〜寛永年間(1620年代)ころに、大門・鎮守堂などの修理・再建を行っている(「大門再営由来写」(『元和三年十月十八日長保寺大門并食堂鎮守八幡宮棟札』)など参照)。またこの間、慶長6年(1601)には、前年紀伊藩主に移封された浅野幸長が検地を行ったのちに、浜中上村の五石を寺領として寄付している(「慶長六年浅野幸長寺領寄進状」)。
浅野氏が広島に転封されてのち、元和5年(1619)紀伊藩主となったのは、徳川頼宣であった。頼宣は、すでに慶安3年(1650)9月に和歌山近辺の寺院の中から菩提寺を選定するための調査を行わせており(「元禄三年雲蓋院留帳抜書」)、長保寺もその候補の一つになっていた可能性がある。そして、寛文6年(1666)に熊野巡検の帰りに、頼宣は長保寺に立ち寄って菩提寺にすることを決定したのである。長保寺が紀州徳川家の菩提寺に選定された理由としては、83の「執当中御書物」によれば、城下から適度な距離があり、長く戦乱が及ばない神聖な場所であるということが述べられている。また、和歌山城が万一落城した際に、最後に立てこもるという事態を想定して、戦略的な観点から長保寺が選ばれたという考え方も存する。いずれも決定的な根拠を欠くので性急に結論付けることはできないが、一つ忘れてはならないのは、勅願寺院であるという長保寺をあえて菩提寺にしたという点である。江戸時代前期の朝幕関係を念頭に置くならば、紀州徳川家の政治的なデモンストレーションの意味あいも含まれていたのではないであろうか。同時に、寛文年間の全国的な寺院整理・統制の動きの中で、紀州の中でも最も由緒ある寺院の一つである長保寺を直接支配下に入れる意図もあったものと思われる。
寛文11年(1671)1月10日に頼宣は亡くなり、同24日に長保寺に埋葬されている。これに先立ち、おそらく寛文6年のことと思われるが、頼宣は「吾可必以天台宗葬」との遺言を残しており、長保寺は真言宗から天台宗へと改宗することになった(その際、頼宣の意向を受けて高野山との折衝に携わったのが雲蓋院住職の憲海であった)。以後、長保寺には歴代藩主(将軍となった吉宗・慶福(家茂)を除く)やその夫人・側室・子女の一部の墓が設置されることになったのであるが、その後の江戸時代における長保寺の基本的な態勢は、寛文12年(1672)に整っている。
まず、6月13日には日光門主で天台座主・寛永寺門主を兼任した守澄法親王から長保寺を定院室に補す旨の文書が発給され(「日門様定院室御書物」)
また6月17日には比叡山の執当中からその守澄法親王の命令を確認・徹底させる文書が長保寺に出されている(「執当中御書物」)。
この段階で長保寺は、関東天台を中心とした江戸時代の天台宗の秩序に正式に組み入れられることになったのである。
そのことを受けて、9月10日には今度は第2代藩主光貞から菩提寺にふさわしい待遇を用意された。
それまで長保寺の寺領は、浅野幸長から寄進された5石の土地のみであったが、ここでそれに追加して500石の土地が寄進されたのである。
このようにして安堵された土地は、寄進関係の文書に藩主の黒印が捺されるので「黒印地」と呼ばれるが、そこでは租税・諸役の賦課権、行政・司法権などが保証されていた。しかし、その一方で「寛文五年公府所領下諸州寺院法令」すなわち諸宗寺院法度の遵守を求める文言は、各宗派の画一的統制をめざす幕藩体制下の寺院政策の中に、長保寺が完全に包み込まれるようになったことを意味するのである。
紀州徳川家の菩提寺になった長保寺には、歴代藩主から仏画や経典を含め多くの什物が奉納されているが、同様に金銭も寄付されている。江戸時代中期以降、長保寺はこの寄付金を元本にして多方面に貸付を行う祠堂銭を行っている。詳細は『下津町史』に譲るが、全国的な動向と同様に、長保寺も貨幣経済に巻き込まれたことを示している。
以上、歴史的推移を祖述してきたが、単なる一地方寺院の動きにとどまらず、全国的な動向とも密接な関わりを持つ点で、長保寺は学術的に貴重な材料を提供していると言うことができるであろう。