仏教にとって禅定は必要不可欠のものである。
慈悲深く、忍耐強く、思慮深ければ、それでよいのではないかというと、そうはいかない。
なぜか。
禅定を説明するとき、「止」と「観」にわけて考える。
2500年に渉って仏教徒は禅定について語ってきたが、この「止」と「観」でおおよそ説明がつく。
一般的に言って、「止」とはつまり、落ち着いて、「観」よく考える。ということになる。
今我々が生活しているこの世界を、此岸と言い、理想が実現された世界を彼岸と言う。
川をはさんでこちら岸と、向こう岸のことである。
我々が生活しているこちら岸の世界には、様々な喜びや希望があるが、同時に数え切れない苦悩もある。喜怒哀楽、栄枯盛衰の中を転々と流転していくのを留めることはできない。そしてどのような幸福の絶頂にある人も、最後には死んでいかなければならない。
因果の流転と生死を越えた向こう岸がある、というのが釈尊の教えである。
川を渡るのには、禅定が必要になる。
日常的なものの積み重ねは、こちら岸では通用しても、向こう岸にはもっていけない。
死んでしまえばそれで終わりなのである。
死を越えるには、非日常的な手段に依らざるを得ない。
それが、つまり禅定である。
止「心を落ち着ける」、観「深く考える」これは両方必要になる。
我々の心は、いつも日常の煩瑣なことで満たされている。 気分や感情も常に変化している。
「止」とは、これを一回スパッと止めてくれ、ということなのであるが、やってみるとこれが難しい。
これは気絶した状態でもないし、眠るのともわけが違う。 目覚めた状態で、心の動きを止めるのはとても無理である。
で、どうするか。
一つの対象に意識を集中させるのである。 それを「止観」という。
雑念を去るのと、集中するのが同時である。
たとえて言えば、スポーツで、徹底的に練習して、無心になって試合に臨んで、結果がでる、ということと似ている。
徹底的に練習するのが「戒」である、無心になって試合に臨むのが「禅定」である、結果がでるのが「智慧」である。
無心になればなんでもできるわけではない。その前提にたゆまぬ努力がある。
正しい行いである「戒」によって、正しい禅定が生じる。
「戒」と「定」がそろえば結果である「智慧」は自分のなかに自ずと生じてくると考えるべきである。
00/12/15
善男子善女人は、
如來の室に入り、 如來の衣を着、 如來の座に坐して、
しかして、まさに四衆のために廣くこの經を説くべし。
如來の室とは、 一切衆生の中の大慈悲心これなり。
如來の衣とは、 柔和忍辱心これなり。
如來の座とは、一切法空これなり。
法華経 法師品
仏教では貪瞋癡(とんじんち)を三毒といって煩悩の根元であるとしている。「むさぼり」と、「怒り」と、「愚かさ」である。
この三毒が全ての苦悩と不幸の根元である。
如来の室、衣、座がこれに対応する徳目となる。
貪->大慈悲心(室)
瞋->柔和忍辱心(衣)
癡->一切法空(座)
「むさぼり」に代表される執着と我執のエゴイズムを、大慈悲心の室に入ることによって克服する。
「怒り」に代表される憎しみと復讐の怨念を、柔和忍辱心の衣を着ることによって克服する。
「愚かさ」に代表される無知と懈怠の闇を、一切法空の座に坐ることによって克服する。
「慈悲」と「忍耐」と「因果を思うこと」が、人間の苦痛への真っ正面からの取り組みである。
2000-12-04
仏教では戒・定・慧を三学といって修行の基本として重視している。
戒を行うことによって禅定が生じ、禅定によって智慧が生じる。
禅定は無念無想が基本となる。
どのような智慧が生じるかは煩悩のある衆生にはなかなか予測できない。
つまり、禅定も智慧も直接的な努力の対象になりにくい。
戒を行うことが修行・努力・工夫の主要な対象であると言ってよい。
では、なぜ戒を行うことで禅定が生じるのか。
これは、走り幅跳びと似ている。助走がつまり戒である。
助走をつけて踏み切ったら、あとは空中の姿勢を制御して着地する。
空中の姿勢の制御が禅定ということになる。
良き助走をすることで、良き空中姿勢がある。
助走と空中姿勢がととのっていれば、後はおのずと着地の結果が出る。
着地が智慧である。
つまり、しかめ面をして坐禅をするといっても、普段の心がけである戒が無ければ禅定は生じないし、智慧は得られないということである。
2000-12-03
99/01/01---00/09/12 「第4回」