寺の通用門を内側から書いた絵です
印象の薄い場所も、絵にしてみると、絵になる(あたりまえか)
最近、時事ネタが多いんだけど
防衛協会は日本会議と近いんだよね
http://www.nipponkaigi.org/日本会議って、なんか右翼団体みたいな内容なんだけど、一つ一つの主張のパーツは、もっとなことも多い
これって、天台宗の偉いさんもかかわってるようですが、組織的に関与するってレベルじゃないよ
政治に関心強い人が個人的にやってることだねぇ
で、僕的には、
金融危機とか政治の迷走、一口で言うと社会の閉塞感は、過度の貿易依存と内需拡大の行き詰まりが原因だと考えてます
つまり、経済的な要因で社会全体が委縮して暗くなってると
ところが、日本会議の活動は、「日本精神への回帰」が必要だという立場なんだな
団子より花、ですね
まあ、シャツのボタンは一番上からかける、とか言って、思想信条は、なにごとにも基本になるんだが、どうも、僕はピンとこない
日本会議の印象は、「昔の思い出アルバム」、ですねぇ
過去の笑顔というか、過去の成功体験というか、未来が感じられない
木に竹を継ぐことはできず、過去の結末が現在ではあるのだけれど、未来への道筋が「昔の思い出アルバム」だけにあるわけじゃないと思うよ
どうも意図的に、「昔の思い出アルバム」を引っ張り出さなくても、人はほっといても良きものを選択しますよ
「昔の思い出アルバム」という過去の前例が必要、なんて、お役所的だね
衣食足りれば礼節に関心が向かうし、貧すれば鈍するのではないですか
ほっといても、経済が順調なら、人間的価値が動物的生存から解放されるということでしょう
貧しくても、美しく生きる、生き生きと楽しく生きる、というのはあると思うが、人間の歴史は、安きにながれ、快適さを求め、安逸を貪ってきたんですよ
安逸のための代償もあるんだが、どう考えても、代償は少ないほうがいいに決まってる
と
そこらへんが、自律的に文明を導くんじゃないかというのが、僕の感想
これですね、僕は、「徳川家の終焉」を皆さんより強く感じるから、そう思うんでしょうね
「徳川家の終焉」は、「過去の美徳の終わり」でもあり、「泣き言抜きの変革」でもあるんですよ
よく見ると、徳川家の統治には、ありとあらゆる良きものがあるんだけれど、唯一最大の欠陥は、永く続きすぎた、ということです
一口で言えば、徳川家無しでも世の中回るようになっていたんです
江戸文化は、おそらくこれから日本が衰微していけば、いろんな再評価がされると思うけど(つまり、縮小均衡のモデルとして)、やっぱり「昔の思い出アルバム」なのよ
いくら「昔の思い出アルバム」の中に美徳が充満してても、さらなる快適さへの誘惑には勝てないんだと思うよ
誰でも、大名みたいな暮らしをしたいのよ
で、そんな即物的な、欲望に満ちた動機であっても、その先には、豊かさのもたらす憂鬱・倦怠や、思考にいそしむ暇が、与えられるわけ
激しく単純化して言い切ってしまえば
衣食足りて初めて、礼節やら思いやりも、具体化できるチャンスがくるんだよ
僕は、インドに何回か行って、限度を超えた貧しさも見てますから、やっぱり、衣食足りることが人間の基本だ、としか言えない
そのために、まともな社会や、努力、助け合い、安全保障、などがどうしても必要だという立場
お釈迦様は、托鉢して生きていけるほどの豊かな社会があって、慈悲を説いても受け入れられたんじゃないですか
日本会議に話を戻すけど、民族宗教としての神道が中心思想にあるんだよね
別に悪かないけど、キリスト教、仏教、イスラム、神道といったものを超えないと、平和の根拠はつくれないよ
古い話だけど、比叡山で第二回世界宗教者会議をやったとき(第一回はバチカン)、すべての宗教にとって最高の価値はなにか、という話になった
「平和」と「幸福」のどっちだ、ということになって
「平和」に決まりました
「幸福」は価値の尺度が自分にあるわけでしょ
「平和」は他者との関係です
「平和」の範囲内で「幸福」を追及しましょう、ということでしょうね
で
「平和」は特定の宗教だけの価値じゃなくて、関係性です
宗教的というより社会的なもんです
日本会議は、国民運動を目指してるらしいけど、なるようにしかならんのちゃうかなぁ、と思いますね