寛文年中、紀州徳川藩主頼宣は熊野巡視の帰途当寺に立寄られ、菩提寺と定められた。頼宣公は仏殿一宇を建立したが、寛文11年(1671)頼宣逝去の折その遺言によってこの地に埋葬された。その後、仏殿を位牌 堂にあて、新たに陽照院を造立して院室とし、寺領五百石を賜ったのである。
すなわち、この位牌堂が霊殿であって、この建物は寛文2年(1662)9月に工を始め、同6年7月柱立、同7年11月に落成したものである。
間取りは北側に霊室を設け、東側に次の間を設ける。南側は西寄(霊室の裏)に代参部屋を設け、東に続いて霊室および次の間を設けている。
東および北側には一間の広縁を設け、さらに外部に濡縁を付け、南側には一間の畳敷の廊下がある。東南隅には南面した玄関と、玄関の間を張出しに構え、物置を付属する。
西側の二室のうち北寄りの室には厨子一基があり歴代藩主の位牌を祀る。
南寄りの室には厨子二基を置き、向かって右の厨子には各藩主の正室を、同じく左側の室には側室と子息の位牌を祀る。
各室とも面取りの角柱を用い、広縁廻りは部屋境、外廻りとも一間毎に柱を建てている。
北及び南の霊室は上段構えにして、来迎柱は円柱漆塗、西方壁際に須弥壇を据え厨子を納める。
南の畳廊下の柱には舟肘木を納め、棹天井を張り、長押痕はあるが現在省略され、もとは二カ所に境界のあったのを取り除き、外廻りは現在中窓構えにしている。
御霊殿の調度
建立当時の調度が、そのままの姿で今も使われています。 御霊殿は一見、質素で剛健な佇まいですが、仔細に観察すると、非常に手の込んだ意匠が施されています。 これ見よがしな派手な意匠ではなく、わかる人にはわかる、さりげなく、重厚な表現が随所に見られます。
釘隠 | 襖引手 | 香炉 | 人天蓋 | 天蓋幡 | 地獄組 | 像面香炉 | 障子腰張 | 金華鬘 | 吊灯篭 | 鬼面華瓶 | 華瓶 | 布製造花 | 灯篭 |