パラレルワールド
わかりやすくはないです
基本的に、仏教は、
「人は感覚器官で脳内にイメージをつくって、実態そのものでなくて、そのイメージにしがみついて生きている」
と、考えています
こうしてモニターを見て、字を読んでいただいていますが
字が見えているのは、自分の目でモニターを見て、視神経を通って信号が脳に行き、脳内で意味を考えているわけです
パッと目をつぶって見えていなくても、モニターはそこにあります
見えている字と、モニターに映っている字は別々なのです
で、これは、目だけでなく、耳で聞く音、鼻で嗅ぐ匂い、舌で感じる味、体で感じる外気の寒暖など、感覚器官で外界を感じて、自分の脳内に印象を作っています
そして、「外界」と「脳内イメージ」は、常に別々の現象です
もともと一つの現象も、脳内イメージは、人によって、必ず違うものになります
「見る」という一つのことで考えても、見る角度が別々ですから、必ず見える姿は違ったものになります
先に結論を書くと、神とか仏というのは、人間の作った、脳内イメージです
宗教も、言葉で書かれた脳内イメージです
ユダヤ教のヤハウェ(旧約聖書)
キリスト教のゴッド(新約聖書)
イスラムのアッラー
などは、エルサレムの神の一つの神格の別々の脳内イメージだと考えることができるのです
もっと言えば、その唯一神は、仏教で言うところの大日如来でもあると考えることもできます
その脳内イメージの違いを議論していたら、いつまでも一致することはありません
もともと別々なのですから
で、見える前の世界を説明したいのですが・・・
説明してしまったら、その説明は脳内イメージです
そこんところが困るのです
目の前のモニターで、この文章をお読みいただいているのですが、
「言葉で説明される前のモニターをなんと言うか?」
などと、聞かれても困ります
「字を写す機械」「ブラウン管のようなもの」「発光する点の集まり」などなど、いくらでも説明のしかたがあり、そのどれも正しく、また部分的な説明でしかありません
観察者の数だけ世界があるのです
パラレルワールドですね
ですが、実際は、一つの世界しかありません
その一つの世界には、時間はありません
昨日と今日、過去と現在、など時間の経過は、脳内イメージです
空間もありません
感じる前の世界ですから、あっちとこっち、上と下など決めようがありません
仏教の般若心経では
「不生不滅不垢不浄不増不減
生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず」
と表現します
ナーガルジュナの中論では、八不(はっぷ)と言って説明しています
「
宇宙においては
何ものも消滅することもなく(不滅)
何ものもあらたに生ずることもなく(不生)
何ものも終末あることなく(不断)
何ものも常恒であることなく(不常)
何ものもそれ自身と同一であることなく(不一)
何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることなく(不異)
何ものも[われらに向かって]来ることもなく(不来)
[われらから]去ることもない(不去)
戯論(形而上学的議論)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も勝れた人として敬礼する
◇引用◇ 中村元著「龍樹」(講談社学術文庫) 320ページ
」
あなたが、自分のパラレルワールドこそ正義だと主張しても、それは限定的解釈です
お互いの解釈をぶつけ合っても問題は解決しません
一つしかない真実は、私利私欲や経験を離れて、智慧でなければつかめない、ということになります
「どこそこの神を信ぜよ」、などは、偶像崇拝
「死の恐怖」、などは、自分で作り出した感情
「厄年、手相」、などは、集団催眠
「体の痛み」すら、激しい脳内反応
それが、仏教の基本的考えかたということですね