サッカーアジアカップ2011決勝のゴール
本当に勇気をもらいました
韓国戦でスポーツマンシップを理解していない選手がいたりして、残念でしたけど
なにもかも吹き飛ばすプレーでした
ところで李さんですが
実は、うちの寺にも李さん繋がりがあって
李梅溪(1617~82)ですね
紀州藩のお抱えの儒者で、初代藩主の顧問です
書家としても活躍しました
父母状を清書しました
http://chohoji.blogspot.com/2011/01/blog-post.html
「父母に孝行に法度を守りへりくだり、奢らずして面々家職を勤め、正直を本とすること誰も存じたることなれどもいよいよ能く相心得候ように常に下へ教へ申し聞かすべき者なり」
親孝行
法令順守
謙虚
質素
勤勉
正直
の六つを盛り込んだ簡潔な文章です
これは紀州徳川家が領民のために作ったものなのですが
この文章が、戦国が終わって、江戸時代が始まる時に出た
戦国を終わらせた、新たな価値観の中心が親孝行ですよ
それを李梅溪が清書して紀州藩に広めた
この父母状を書かせたのは初代藩主ですが、その孫が八代将軍の吉宗です
江戸時代の根本精神と言ってもいいと思います
それが、振り返ってみれば、270年続く太平の世の礎になりました
こちらは、長保寺の大門扁額
応永24年(1417)の銘があり、国宝に指定されています
字を書いたのは、天台座主の後光厳天皇第六皇子妙法院堯仁法親王
宮様がお寺の額を書くのは、その寺が天皇家が作ったものだというのを証明するためです
ですから、逆に言うと、この額をかっぱらって自分の寺に掛ければ、勅願寺になってしまいます
それで、盗難がけっこうあったらしいのですが、紀州の初代藩主は、全くそっくりの額を書かせて(今で言うレプリカですね)、掛け替えさせました
本物のほうを大事に蔵にしまいこんで、そのおかげで綺麗に保存され、国宝に指定されることになりました
この字を書いたのが李梅溪です
江戸時代の初めに、もともと掛っていた妙法院宮様の額をこの額に掛け替えたのです
初代藩主の徳川頼宣(よりのぶ)は、徳川家康の十男ですが、一番かわいがられたと言われています
家康は戦国時代の人ですから、戦争に明け暮れて家族と暮らすということが全くできませんでした
それが、関ヶ原の戦いの後、戦争が一段落して家族と暮らす時間が持てるようになりました
関ヶ原の戦いの次の年に生まれたのが頼宣です
ですから、かわいがられたというのは、もののたとえで、実際は、かわいがる時間があった、いっしょに暮らす時間があったということです
しかしながら、事実上、一番長く家康と暮らし、生また時から18歳の時まで、家康が自分自身で全て仕込んだのが頼宣、ということになりました
頼宣の身長は残された着物から推定すると180cm位で、胆力に富み、思いやり深く、家康に非常に愛され、また、成長するにしたがい、恐れられました
18歳で紀州藩主になりましたが、江戸から遠い紀州の藩主になったのは、将軍家の安全のため江戸から遠ざける意味もあったと言われています
吉宗は、紀州初代藩主の頼宣を敬愛し、八代将軍になってから長保寺に香呂を寄進しています
吉宗にとっては特別のことだったのです
吉宗は、享保の改革で、質素倹約を目指しましたが、そのせいでお寺への寄進が無かったということがあると思います
この香呂は「頼宣の霊前へ」とわざわざ指定され寄進されました
それだけ吉宗の頼宣への敬慕が強かったのですが、家康が18歳になるまで手元に置いて仕込んだのが頼宣なのです
吉宗は、紀州の田舎から江戸に登って将軍になったのですが、初代将軍の家康、家康が手元に置いて仕込んで家康のことを最も知っている頼宣、頼宣の孫の吉宗と、家康以来の精神の継承の正当性を天下に示す、大事な寄進であったのです
家康、頼宣、吉宗と徳川の精神が受け継がれたことを示すため、この香呂が長保寺に存在するのです
その頼宣が李梅溪を重用していたという事実
徳川の精神、もっと言えば、江戸時代の精神の奥底に
親孝行
法令順守
謙虚
質素
勤勉
正直
がある、と言ってもいいと思います
屈折した感情を持っている韓国人には、きちんと知って欲しいですね
別に威張らなくても、相手を中傷誹謗しなくても、充分立派な歴史を持っていると思いますよ
明治維新から日本は、劇的な変貌を遂げていきますが、西欧から招いた教師の力が大きかったのと、日本から西欧に留学した優秀な人材がいたせいもあります
ですが、その前に、優秀な外国人の智慧を素直に受け入れる柔軟な精神が江戸時代の初めからあった、というのが実際のところです
排他的な島国根性で現在の日本を創ったのではありません
学んで、その知識を、期待された以上の活用をして、今日の日本を創ったのではないですか
なかなかこれが、たとえばイスラム原理主義とかになると、全く無い
独裁政権にも無い
智慧を素直に受け入れる柔軟な精神
学んで、その知識を、期待された以上の活用をする
そこのところが、日本人はすごい、と
それが、江戸時代の初めからあった、ということです